どうもモサクです。
ブログを見て頂いた方、本当にありがとうございます😊少しでも共感して頂けることがありましたらブロガー冥利に尽きる次第であります。
さて、今回は非効率のススメということで眉を顰める方も多いと思います。
それもそのはずで、生産性やら効率化といった概念は現代では誰しもが追求すべきものとされているからです。
生産性、効率とは何ぞやということで早速ググってみました。すると、
生産性
「企業が採用した経営資源に対し、どれだけ成果を生み出すことができたかという効率の度合い」
効率
1 機械などの、仕事量と消費されたエネルギーとの比率。「—のよい機械」「熱—」
2 使った労力に対する、得られた成果の割合。「—のよい投資」
とありました
特に生産性という言葉は主に経営概念として使われる言葉のようです。
それが私が嫌いな1つの理由であります。
生物である人間に対し、まるで何かを生み出すための機械であるかと言われてるような、そんな冒涜的なニュアンスを感じてしまうのです。
そして、他にも理由があります。
効率は人生の楽しさや面白さを狭めてしまうからです。
効率を追求するということは、簡単に言うなら
早く、簡単に達成する(させる)ことです。
一見ベストなようですが、効率化を追求するということは結果的に行動(過程)が制限されることになります。
成果主義の下では最も効率の良い手段=マニュアル化がされています。利便性は高い反面、裁量の余地が無くなることで試行錯誤して正解を導く喜び=やり甲斐を失わせている側面もあります。
また、そこから外れてしまったものを非効率な存在として排除、あるいは厳しく断罪するためのものとなってしまっている場合もあります
更に悪いことに生産性も効率も数値化可能、つまりは外部からの管理(支配、拘束)が可能な概念なのです。
こうしたものがある種、現代の閉塞感の一因になってしまっているのではないでしょうか?
誰しも落れば即死の平均台の上を歩かされては生き甲斐も喜びもあったものではないでしょう。
生産性や効率を追求するあまり、私たち一人一人が
「成果を生み出さない者は悪」
という、一種の優生思想に染まってしまっているの可能性もあります。
そんな世の中、生きづらくて当然でしょう。
そもそも人間=生物なんて生産性や効率などと無縁の存在です。
せっかく飯食ったのに糞にして出している時点で非効率です。
加えて、そもそも人生なんて無意味です。
何故か、どう足掻いても私たちは消えゆく存在だからです。
なのでとても長い目で見れば私たちのやってることは、例えどれほどの努力と犠牲の上に作り上げたものであっても、無意味であるのです。
全てが無意味、つまり価値にそもそも上も下もないのなら、それは全ての価値や存在に意味があると言ってもいいことにもなります。
価値なんてそもそも人が後付けで決めた概念なのです。万物はそこにただ存在するだけなのですから
だから効率的か生産的かなんて考えず、
周りにも自分にもおおらかに
流れる水や雲のように生きてもいいんじゃないでしょうか
人生の価値に違いなんてないのですから